伽古屋note

ツイッターの拡張版として。たぶんアニメの話とか小説の話とか。

19年春アニメ総評(裏)

 さ、もうひとつの総評(裏)では、最後まで完走はしたものの、いろいろ言いたいことがある作品を。

 

 とはいえ、自分には合わなかった作品(自分がターゲットではない作品、完全に嗜好とは違っていた作品)は途中で切っているので、ここで触れることもない。完走した以上、なんだかんだ最後まで楽しんだ作品である。

 なるべく笑えるように、刺々しい内容にはしないつもり。好き嫌いで悪罵するようなことをする気もないし。

 それでも批評であるのはたしかであり、ものづくりに関してはプロの端くれとして真剣に論じるつもりだし、批判的なことも含まれると思う。だから批評や批判が嫌いな人は読まないでほしい。

 

 前置きはこれくらいにして。今回取り上げる作品は、

八月のシンデレラナイン

『世話やきキツネの仙狐さん』

『女子かう生』

『フェアリーゴーン』

『キャロル&チューズデイ』

 の5本。

 とはいえ、ぶっちゃけ当エントリは『キャロル&チューズデイ』について語るために書いたといっても過言ではない。そこだけはけっこうまじめに語ります。

 

 

 

八月のシンデレラナイン

 かつてソシャゲ原作といえばクソアニメの代名詞だった。それが近年は「ウマ娘」や「少女歌劇レヴュースタァライト」などの傑作もちらほらと出てくるようになり。「荒野の……」はまあいいか。

 で、表題作。

 いやー、普通だったー。

 特におもしろいわけではなく、よくあるキャラによくあるストーリー。突出した魅力はなく、かといって破綻しているところもなく。すべてが無難にまとまっているので「サークレット・プリンセス」のようにみんなでツッコむことでおもしろくなるわけでなく。いい意味でも悪い意味でも、普通。

 神アニメでもクソアニメでもない、ソシャゲアニメの新たな金字塔。

「普通」

 


『世話やきキツネの仙狐さん』

 おれが癒しを求めていないせいか、まったく嵌らなかった。それにしても、ただのエロアニメやん!笑

 ちょっとまじめな話をすると、エロ作品をおれは評価しない。だって作品性が人気なんじゃなく、エロが人気なだけやん。ここでいうエロとは「女性(男性)を都合よく描く」作品や、「女性(男性)を性的に描く」作品。すべてがそうではないが多くの異世界転生ものアニメ、ラブコメアニメもここに入るし、一貫してまったく評価していない。

 ただ、評価するしないと好き嫌いは別。

「みるタイツ」のように「エロアニメです!!!」って割り切ってる作品は嫌いじゃない。評価はしないが、嫌いじゃない。おれはタイツフェチじゃないしJK好きでもないので半笑いで見る感じだったが、嫌いじゃない。

 しかし「仙狐さん」はなぁ……。「無条件に甘やかしてくれる幼女のママ」で癒されるとか、病みすぎだろ。正直ちょっと引く。これは第一話感想にも書いたが、しかもそれを「人ならざる者」にしてごまかしているのがね。そのこざかしさもしゃらくさい。

 バナナも混ぜるのじゃ!

 

 

『女子かう生』

 そもそも原作が雰囲気ものなんだから、割りきって声も効果音もなしで、BGMだけのサイレントにするべきだったんじゃないかな。しかも雰囲気で見せるにしては画づくりも凡庸。

 声優がいないと露出や売上(やイベント?)が厳しい、と考えたのであろうアニメ制作陣の、腹をくくれなかった中途半端さばかりが目立った気がした。

 それにしても、最後の最後にひとことだけしゃべるのは、演出意図がまったく理解できなかった。ぽかーん、ですよ。制作陣による中途半端さの自虐?

 


『フェアリーゴーン』

 第一話感想であれだけべた褒めした以上、スルーするわけにはいかないよね。

 実際おもしろかったんだ。最後まで安定しておもしろかった。

 ただ、いかんせん話が込み入りすぎている。そのせいでストーリーラインがわかりづらく、見ていてなにに注目すればいいのか、どこに感情移入すればいいのか、戸惑う人は多かったんじゃないだろうか。おれは楽しめたんだけどね。

 あと劇伴(BGM、劇中歌)の自己主張が強すぎたのも気になった。縁の下の力持ちではなく、自己主張する劇伴があってもいいとは思う。ただ、やはり劇伴の第一義は物語を盛り上げることだと思うんだ。

 本作では音楽ばかりが目立つうえに浮いていて、いまひとつ効果的ではなかったように感じた。「灰と幻想のグリムガル」ではあれほど素晴らしかったというのに……。

 


『キャロル&チューズデイ』

 最後に挙げるのは、こちら。

 冒頭に書いたように、この作品(以下「キャロチュー」)についてはたっぷり語ります。

 まず、作品としてはまずまずおもしろかった。絵や音楽のクオリティも高かったと思う。世界配信前提の作品なので、劇中音楽についてはややちぐはぐなところもあったんだけど、それはまあいいとしよう。ここでは触れない。

 言いたいのは脚本や構成であり、全体の雰囲気づくりであり。

 

 まず序盤。けっしてつまらなくはないのだが、なんとなく乗れなかった。それはたぶん事前に見たPV(CM)や、絵柄を含めた画面から滲み出る雰囲気などから想像しうる作風と、実際の作風が違っていたからだと思う。

 人間性を深く描く、じんわりとした、もっとロービートな作品なんだと思っていたのよ。けど実際は人間の描き方が薄っぺらく、ノリも軽く、シリアスよりコメディ寄りの作品だった。

 後者だから悪い、というわけではまったくなく、こっちが思い描いていた方向性とのギャップにしばらく戸惑った、という話。勝手に思い込んだこっちも悪い。

 でもコンテンツには作品の方向性に相応しい「ガワ」が必須であり、そこに失敗するとそれだけで致命的なことになる。

 

 たとえば小説や漫画のカバーやタイトルが、いかにもラブロマンスな雰囲気なのに、実際は猟奇的なホラーだったらどうなるか。

 Amazonに「思っていたのとぜんぜん違いました。星ひとつ」などの低評価レビューが並ぶわけですよ。たとえ猟奇ホラーとして傑作だったとしても、ラブロマンスを期待して買った読者は「裏切られた」としか感じないわけで。

 この「裏切り」はうまく使えば効果的なこともある。いちばん有名なのは「魔法少女まどかマギカ」だろうし、「がっこうぐらし!」もそうだろうか。しかし裏切りを成功させるには綿密な準備や細心の注意が必要だし、センスも求められる。簡単にできることではない。

 基本的には届けたい読者(視聴者)に正しく届けるため、この作品はこういう作風(ジャンル)ですよ、と手に取る前にわかるように努力する。

 ここでギャップが生じて低評価をつけられたときに、「勘違いした人が悪い」「作品性を正しく見て評価するべき」などと言うのは間違いだ。ガワ(パッケージ)のつくり方をミスった制作者の責任である。

 

 話を「キャロチュー」に戻す。

 というわけで、おれはやっぱりキャロチューのガワのつくり方は失敗していたと思う。裏切りというレベルではなく、微妙に(それゆえに致命的に)視聴者が求めるものと、実際の作品性にズレがあったように思う。

 そもそも(後述する理由も含めて)コンセプト段階からミスったか、あるいは制作フローの問題ではないかと推測しているのだが、内情は知らないからこの点については言及しない。

 

 でまぁ「こういう方向性の作品なのね」というのがわかってきたあたりからは、ぐんぐんおもしろくなってきた。AIロボにPV撮影をさせる回などは抜群だった。

 作画は安定してるし、キャラに魅力があり、演出にスピード感もある。クオリティは一貫して高い。だからこの調子で最後まで突っ走ってくれるかな、と思ったら・・・

 

 後半、オーディション番組編に入って、一気に失速。

 オーディション番組というイベント自体は悪くはないと思う。しかし後半がずっとこれではさすがにダレる。

 はたして勝ち負けが決まるだけのトーナメント戦を、逐一描く意味はあったのだろうか。特に物語性もなく、その大半に主人公は絡んでいない。結末(決勝の組み合わせ)もわかりきっているのに、退屈にもほどがある。

 おれは小説において「観念的な夢のシーンは控えめに(できればなくそう)」と言っているのだが、それは「物語がなにも進んでいない」状態がつづくのは、読者にとってストレスでしかないから。夢のシーンは往々にして作者の自己満足でしかない。キャラを立たせるためだけにある、物語の進行に関係のないエピソードもしかり。

 オーディション番組編には、同じ瑕疵を強く感じた。

 勘違いしないでほしいが、この作品における音楽はどれもこれも本当に素晴らしかった。スピーカーを替えてよかったと、いちばん実感できたのがこのアニメだったかもしれない。

 でも、音楽の素晴らしさと作品の構成は話が別。

 

 この作品のメインは人間ドラマではなく音楽だ! というコンセプトであるならば、さまざまなアーティストを並行して描く群像劇にすればよかったはずだ。それならば後半をまるまるオーディション番組に割く意味もあったと思う。

 けれどキャロルとチューズデイ、このふたりを主役に据えるのなら、もっと相応しい物語の展開があったはず。

 主役でありながらふたりの人間性はまったく掘り下げられず、バックボーンも「設定」以上の意味を持っていなかった。

 孤児というキャロルの出自が物語や彼女の人間性に活かされていたとは思えなかったし、チューズデイの家族は最終話しかストーリーに絡んでおらず、最後の盛り上げのための設定みたいになってしまっていた。

 オーディションを描くより、後半はチューズデイと家族の衝突をもっともっと丁寧に描くべきだったんじゃないだろうか。そうすれば孤児であるキャロルの設定も活きてきたように思う。

 後半になって、このアニメはなにを描きたかったのか、中途半端さばかりが目立つようになってしまった。これは監督がどうとか脚本がどうとか誰が悪いという話ではなく、制作体制に問題を抱えていたように思えてならない。

 

 とまぁ、気になったところを書き連ねると辛辣に聞こえてしまうけれど、すべてにおいて平均以上のクオリティはあったし、最後までそれなりに楽しめたのはたしか。

 けれどそれゆえに、さまざまな要素が噛み合っていない中途半端さと、残念さを強く感じてしまったのもたしか。

 

 

 以上。

 思っていたよりまじめに語ってしまったな。

 

 人それぞれアニメ(創作物)になにを求めるかは違ってくるだろうし、嗜好や考え方もさまざま。自分の意見が一般的だとも絶対だとも思ってないし、浅いところも多々あると思う。ほかの考えを否定するつもりもない。

 納得できた人も、できなかった人も、そこは理解していただけたらと。

 

 それでは、よきアニメライフを。